
「競争とはライバルとの戦いではない。自分との戦いだ。」と気づくレベルまで努力しているものは、そのライバルに対して尊敬の念が沸いてくるものなのです。前述した
日生学園第二高校の卓球部の生徒は、これだけ努力しても時に叩きのめされる好敵手のM君に対して畏敬の念を持っているのです。
日生学園第二高校の卓球部は全寮制でしかも体育コースです。練習時間はどこの学校にも負けません。そうした条件を最大限に生かして練習しているのに、簡単には勝たせてくれない彼のその練習の厳しさが誰よりも分かっているからなのです。逆に、彼がいるから自分たちもここまで厳しい練習に耐えていけることも知っています。ライバルを通じて彼らは人間の素晴らしさを知ることができたのです。
ライバルとの熾烈な戦いとは、実はそれを通じて人間の尊厳を知ることにつながるのです。単なる理屈で人間の尊厳を言うものではないのです。子どもを競わせると言うと、相手を蹴落とす冷酷な人間を育てるかの如くに錯覚している人が多いのが現状であるとは思います。しかし、それは全くの理解不足です。そうした経験のない人が頭で考えた屁理屈なのです。そこまでの競争を経験したことのない人の言葉なのです。好敵手は好敵手を知るものです。
日生学園第一高校は年々受験実績を上げていますが、この流れを確実なものにしたのは2人のライバルでした。1人は
日生学園中学校からの6年一貫コースの通学の女子で、もう一人は大阪の私立高校からの転校生の寮生の女子です。家庭の問題から挫折して
日生学園に転校して来た彼女と6年一貫の勉強をしてきた彼女とでは大きな学力差がありました。6年一貫の女子は医者の娘で慶應義塾大学を志望し、校外模試でも常に高得点を残していました。そんな彼女にライバル心を持ちはじめたのは高校3年の夏休み前からでした。家庭の事情で国立大学以外は受験できないことが決まってから、ようやく決心がついたのです。「夏休み、家に帰らず学校で勉強しても良いですか」と聞きにきました。クーラーの効いた応接室を彼女の為に提供してやりました。1日も帰らずに文字通り朝から晩まで勉強をしました。夏過ぎの模擬試験で一気に立場を逆転させました。そこから2人の戦いが始まりました。火花を散らした戦いです。そして2人とも第一志望の大学に合格しました。慶應義塾大学と奈良女子大学にです。

しかもこの2人の競争は2人に止まるものではなかったのです。2人の真剣な学習姿勢は多くの生徒に影響を与えました。休みになっても家に帰らずに勉強する生徒が一気に増えました。通学していたのでは勉強が捗らないと寮に入ることを希望する通学生も増えてきました。
中途半端な競争であっては駄目なのです。競争は熾烈なものでないと駄目なのです。自分の全てをそこに注ぐ程のものでないと駄目なのです。そこから、自分が見えてきます。そこから人間の素晴らしさが見えてくるのです。
競争が人間性を阻害する等と言うのは全くの誤りです。21世紀は共生の時代だと言います。しかしそんなに甘いものではないのです。
日生学園第二高校は三重県の青山高原の一角にあります。自然の真っ只中です。学校ができるまでは狩猟が盛んに行われていました。学校が作られ猟が行われなくなると、年々鹿の数が増えてきました。卒業記念に植えた百本程の梅の木は新芽を食い荒らされて、10年ほどでなくなってしまいました。自然との共生一つとってもそんなに簡単なものではないのです。のんびりしていると全て食べられてしまいます。学園の花壇に植えていたチューリップも数年前から好物にしはじめ、今年は1本の残らず食べられてしまいました。競争が前提にない共生はありえないのです。
競争的環境を学校に取り入れることでしか個性も育たないし、21世紀に生きる人を育てることはできないのではありますまいか。