
国際競争力を失ってしまった銀行や企業の現状に対して、護送船団方式で守られてきたことによって、落ちこぼれも出なかったが、その企業ならではの独創性を喪失したと言われます。国有企業が国際的な競争では太刀打ちできぬことは、ロシアでもドイツでも中国でも明らかです。結果の平等が守られていると、競争力も、企業の独創性も失われてしまうことは今明確になってきました。企業がそうであると言うことは、実はその企業に勤めている人にも同じことが言えるのです。結果の平等が保証されていると、労働の質よりも時間が重視されてきます。個性を出すことよりも没個性が大切にされます。それはかつての社会主義国家でも日本でも一般的に見られる姿です。
なるほど、競争が没個性の企業や企業人を生むことは分かる。しかし、教育の場は平等であるべきだと考えておられる方が多いものと推測します。では、本当に競い合うことのない環境で個性が育っていくのでしょうか。
そうした環境は、個性が育つ以前にやる気が喪失してしまうものなのです。大人でもそうではありませんか。どれだけ働いても賃金が同じという企業では必ず倦怠感が拡がっていきます。それが現代の日本に突きつけられた課題であることは繰り返す必要はないでしょう。しかし、子どもは別だと言えるのでしょうか。

試験をしても順位は出ない。駆けっこをしても1位も2位もない。そこからやる気が出てくるのでしょうか。そう問われれば、次の言葉が帰ってきます。試験によって順位を付けることは点数で人間を区別することになる。成績が悪い生徒に駄目な人間だとのレッテルを貼ることになる。勉強のできる環境の子は良いがそうでない子は最初から結果が分かってしまうではないか。平等を保証せねば。
この論理は正しいのでしょうか。先ず、成績が良ければ良い子、悪ければ悪い子と決めていることこそ可笑しいのではないでしょうか。勉強のできる子もいればできない子もいる。理解に違いがあって当然のことなのです。それを良い悪いで見ることが間違いなのです。違うことが個性なのです。勉強ができないから個性がないのではないのです。勉強ができないという個性があるのです。
勉強ができない環境にある子ならばとことん教師が学校でつきあってやれば良いのです。試験をして順位を出さない正当な理由等ないのではありますまいか。逆にそうすることで、生徒のやる気がだんだんと萎えてきます。もっと頑張りたいと思っている子は結局塾でその願望を果たしているのが現実ではないでしょうか。

スポーツや文化芸術活動も同じことです。校外の大会では必ず順位がつきます。なぜ校内だけは駄目なのでしょうか。選手として代表として志願しているから校外では許され、全員が参加するから校内は駄目なのでしょうか。これも可笑しい論理です。負けるから次は頑張ろうが出てくるのです。負けたくないから頑張ろうとする気持ちが出てくるのです。勝ちたいから下手くそでも頑張ってみようとの気持ちが出てくるのです。ここにも、1番なら良い子との考えがあるのではないでしょうか。それがあるから問題なので、違いが個性だと見れば何処にも問題は生まれないのです。
違うことが大切なのです。違うことが当たり前なのです。それを認めた上で競い合う中からやる気が出てくるのです。違うことが現れることが、平等に反すると見ることから、生徒のやる気を喪失させてしまっているのです。
前の章で、21世紀の日本では競争に勝ち抜く力が必要であると論じましたが、21世紀が競争の世紀だから教育の場に競争が必要なのではなくて、子どものやるきを引き出し、様々な価値あるものに意欲的に取り組ませるためにはどうしても競争的な環境が必要なのです。